つぎはぎな生活

信念なき暮らしを思いつくままにしゃべる

故郷について

東京から盛岡までは約二時間と少しで着くというのに、その先の終点秋田まで、更に二時間を要するとは一体どういう事なのだ。故郷に帰る道中、分かってはいるのにいつも呆れてしまう。

秋田新幹線が開業したのは、わたしが中学生の時分だった。それまで東京への交通手段は、飛行機か深夜列車の二択しかなかった、はずだ。

そりゃあ地元は大騒ぎだしボロボロの駅舎も新しくなったし、いらっしゃい僕らの新幹線!だけど名前はこまちかよ!米かよ!ちょうダセえ!みたいな賛否両論大盤振る舞いの大騒ぎだったような記憶がある。ともあれ、私にとっての新幹線は、長らくイコールこの秋田新幹線だった。

そんな訳で、大人になって随分経つまで知らなかった。

普通は新幹線の座席は三列並びだということ(秋田新幹線は二席)、新幹線は高架の上に用意された専用の線路上を走るということ(秋田新幹線は在来線上を走ります)、あとローカル駅に停まって反対方向の電車を通過待ちしないということ、あと(これは若干気付いていたが)普通の新幹線は座席の向きと逆方向には走ったりしないこと(秋田〜大曲区間スイッチバック)である。

あと先ほどWikipedia読んで、そもそも秋田新幹線という名前が通称っていうのも初めて知った。まじかよ。

ミニ新幹線と呼ばれ、盛岡での東北新幹線との連結及び切り離し作業で鉄ヲタの心を掴み、たまに仙台辺りで寝入って目を覚ますと、車窓の風景がものすごく近くなっていて、そこで盛岡を既に過ぎたことに気付かされたりもする。在来線だから、新幹線でありながら地上を走るのです。

そんなネタに困らない秋田新幹線(通称)、在来線区間に変わってからの風景は、それなりにお気に入りだ。奥羽山脈の通過中、山の中をくぐり抜けていくような楽しみとか。延々と続く田園風景は、ぼんやりするのに最適だ。夏の青々とした田んぼはきらびやかだし、秋の黄金の稲穂の海は、言うまでもなく美しい。春は、田んぼの真ん中で一本だけ根を張っている満開の桜を眺めるのが好きだ。足下には集落のお墓があったりして、まさに地域の木といった風情の桜。

そして冬の時期。どこまで見ても、ひたすら白い雪と葉の落ちた木が並ぶ。ついでに、秋田の冬の特徴である、ひたすら厚い雲と灰色の空。遠くの山まで含めてグレースケールの景色。こう、荒涼とか茫漠とか、語感も含めてそんなワードが頭に浮かぶ景色だ。

けれど、この景色を目にすると、ああ故郷に帰ってきたなあ…としみじみ実感する。一番、故郷を感じるのはこの季節かもしれない。

寒々しい、寂しい、物悲しい。わたしが故郷に対して思うイメージには一番近いのかもしれない。

東京では、きっとこの景色のさびしさには巡り会えない。どうしようもなく広く、全てがモノクロで埋め尽くされるような色彩は、都会の景色とは最も縁遠い風景だ。

わたしの心のどこかには、いつも寂しさがある。寂しさを覗き込むたびに不思議と安心する。車窓の景色は、その寂しさに似ている気がしている。