つぎはぎな生活

信念なき暮らしを思いつくままにしゃべる

リアルテラハ生活(暫定)

いや、テラスハウス見た事ないんですけどね。

色々なことがあって、暫定的にシェアハウス生活を送ることになった。元々3LDKをシェアしていた友人ふたりの処に、最低限の荷物を担いで転がり込んだ形だ。

住み始めて少し経つが、一部屋貸してもらったことが大きいのか、住人の生活スタイルがそれぞれバラバラなのが都合よいのか、なんとなく気楽に過ごせている。
誰かの作ったお惣菜を三人でシェアしたり、逆に自分が作ったお惣菜をご自由にどうぞと提供してみたり、誰かの揚げたからあげをサーブしてビールのつまみにしたり。

珍しく全員が揃った時はご飯を一緒に食べてみたり、誰かの部屋に集合してテレビをだらっと観たり音楽流したり、ということもある。

もちろんそれぞれで引きこもる事もある。それが許されるのも、また居心地がよい。

私は新参者なので、先のふたりの生活リズムや距離感を伺いながら、ふたりの調子が狂わないようにと同じようなテンポで暮らすことを心掛けたりしている。たとえば、だらしなく暮らさないことと同じくらいに、沢山やりすぎもしないようにするなど。掃除とか、積極的にやりたいけど、それが却ってふたりのリズムを崩すような気もしているのだ。

私が転がり込んだ理由について、ある程度ふたりには話している。けれども、その事について説教も進捗状況のお伺いも何もなく、しばらく暮らしていいよ、三人目がいればそれはそれで楽しいし問題ないよ、と鷹揚に許してくれたことに頭が上がらない。

私は常々、交友関係が狭い事を悩んでいた。
もっと友達を増やした方がいいんじゃないのか、この年になって、いつも同じ友人たちとばかりつるむのは、自分の世界を狭くしているだけなのではないか、と。

けれど、突然一緒に住まわせてくれという申し出を許してくれて、大袈裟な干渉もなしに放置してくれるような優しい人たちが周りにいてくれるのなら、もうそれでいいじゃないか、これ以上の何を望むのかと、思い直すことができた。
ふたりのやさしさを、ひたすら牛のように反芻するばかりである。

この年で暫定シェアハウスをする事になるとは思いもよらなかったのだけれど、いざとなれば自分も誰かに頼れるということ、人生の舵とは愉快な方向に切れるものだなあという予測不能な感じ、人生の自由がまた一つ広がったような楽しさを実感して、何だか不思議とわくわくしている。