つぎはぎな生活

信念なき暮らしを思いつくままにしゃべる

こころの時代という番組

Eテレでやってる番組です。

いまちょうど再放送やってるのですが、なんか付けておいてしまう番組なんですよね。

宗教や、倫理もかな?仏教など、に関する方を一人クローズアップして、その方のインタビューを軸に構成される番組なのですが、何となく付けっぱなしにしてしまう。

ところで、私は割と自宅ではテレビ付けっぱなしにしている方なのですが、あまり興味のない番組だと消音にして流してることも多いです。

音の情報は不要だけど、目の隅に動いているものが欲しいというか。あんまこれ理解されない事が多いんですが…。文章書いたり読んだりしている時に音声情報が邪魔なのだけど、黒いテレビだけが視覚に入るのも落ち着かないという謎現象。

話を戻そう。

この番組はどうして音声出して流しっぱなしでも苦にならないのかな〜と不思議だったのですが、いま改めて番組を流し見して、分かったことがふたつ。

インタビュイーの方、語り口が穏やかな方が多く、しかも一人しか出てこないから気が散らないし、一つのテーマについて語っているので、途中から聞いても何となく話についていける。

テーマがテーマなので、画面自体が静か。仏像とかお寺とか教会とか。ちょっと顔上げても落ちつく。

こういう番組、もう少し増えてくれると助かるんですが(自分が)。民放だと難しいので、NHKさん宜しくお願いします、というところです。

あ、不定期でやっている、ナレーションなしの番組。あれはいいよなあ。ひふみんの回は映像がめちゃめちゃ凝っててオシャレでたのしかった。あの回、もう一度見たい。

 

書く癖を付けたいなあと思うなど

ろくに更新していないのに、気付けば下書きばかりが10件近く登録されていた。考えた事を、途中までボチボチ綴っては捨てているらしい。公の場に文章を出すのが不慣れなのもあるけれど、何事も途中で面倒になって全部投げ出す悪癖が、ここでも出ているような気がする。

そんな訳で、取り急ぎ直近で残っていたのを公開してみた。思い返せば、3月にぼちぼち新幹線の中で書いたやつだった。多分ビール飲みながら酔っ払ってぽちぽち書いていた。起承転結とかぶっ飛んでるけど、まあいいか。

そんな訳で、何か書いては出す癖を付けたい。

だけど、そもそも私的な考えやら生活を文章にしておきたいという欲求が、自分の中に存在しているのは不思議でもある。文章をしたためたいなら、日記帳でいいじゃないか。みんなに見てほしいなら、フェイスブックにでも書けばいいじゃないか。

でもそれではダメなんだろうなあ。誰かに見られる環境で公開したい、だけど、ささやかな匿名性は保っておきたいというか。我ながらよく分からん。

 

故郷について

東京から盛岡までは約二時間と少しで着くというのに、その先の終点秋田まで、更に二時間を要するとは一体どういう事なのだ。故郷に帰る道中、分かってはいるのにいつも呆れてしまう。

秋田新幹線が開業したのは、わたしが中学生の時分だった。それまで東京への交通手段は、飛行機か深夜列車の二択しかなかった、はずだ。

そりゃあ地元は大騒ぎだしボロボロの駅舎も新しくなったし、いらっしゃい僕らの新幹線!だけど名前はこまちかよ!米かよ!ちょうダセえ!みたいな賛否両論大盤振る舞いの大騒ぎだったような記憶がある。ともあれ、私にとっての新幹線は、長らくイコールこの秋田新幹線だった。

そんな訳で、大人になって随分経つまで知らなかった。

普通は新幹線の座席は三列並びだということ(秋田新幹線は二席)、新幹線は高架の上に用意された専用の線路上を走るということ(秋田新幹線は在来線上を走ります)、あとローカル駅に停まって反対方向の電車を通過待ちしないということ、あと(これは若干気付いていたが)普通の新幹線は座席の向きと逆方向には走ったりしないこと(秋田〜大曲区間スイッチバック)である。

あと先ほどWikipedia読んで、そもそも秋田新幹線という名前が通称っていうのも初めて知った。まじかよ。

ミニ新幹線と呼ばれ、盛岡での東北新幹線との連結及び切り離し作業で鉄ヲタの心を掴み、たまに仙台辺りで寝入って目を覚ますと、車窓の風景がものすごく近くなっていて、そこで盛岡を既に過ぎたことに気付かされたりもする。在来線だから、新幹線でありながら地上を走るのです。

そんなネタに困らない秋田新幹線(通称)、在来線区間に変わってからの風景は、それなりにお気に入りだ。奥羽山脈の通過中、山の中をくぐり抜けていくような楽しみとか。延々と続く田園風景は、ぼんやりするのに最適だ。夏の青々とした田んぼはきらびやかだし、秋の黄金の稲穂の海は、言うまでもなく美しい。春は、田んぼの真ん中で一本だけ根を張っている満開の桜を眺めるのが好きだ。足下には集落のお墓があったりして、まさに地域の木といった風情の桜。

そして冬の時期。どこまで見ても、ひたすら白い雪と葉の落ちた木が並ぶ。ついでに、秋田の冬の特徴である、ひたすら厚い雲と灰色の空。遠くの山まで含めてグレースケールの景色。こう、荒涼とか茫漠とか、語感も含めてそんなワードが頭に浮かぶ景色だ。

けれど、この景色を目にすると、ああ故郷に帰ってきたなあ…としみじみ実感する。一番、故郷を感じるのはこの季節かもしれない。

寒々しい、寂しい、物悲しい。わたしが故郷に対して思うイメージには一番近いのかもしれない。

東京では、きっとこの景色のさびしさには巡り会えない。どうしようもなく広く、全てがモノクロで埋め尽くされるような色彩は、都会の景色とは最も縁遠い風景だ。

わたしの心のどこかには、いつも寂しさがある。寂しさを覗き込むたびに不思議と安心する。車窓の景色は、その寂しさに似ている気がしている。

ひとりはひとりぼっちではない

糸井重里さんの言葉でお気に入りのひとつが
Only is not Lonely
というジャパニーズイングリッシュな一文である。
ご存知ほぼ日の扉に書かれている、キャッチコピーである。

ご本人による和訳も目にしたような気はするけど、
とりあえず自分としては、初見からタイトル通りに訳して、そのままお気に入りとしている。

ひとりはひとりぼっちではない。

さて、この言葉が入ったTシャツが、ほぼ日で売り出されたことがあった。
衝動的に買ってしまったのだが、なかなか着る機会がない。


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※シワが寄ってるのはご容赦

理由は単純で、ぼっち行動が多い自分がひとりでこれを着ているのは、何となく気恥ずかしい、というところである。

自意識過剰!我ながら!

強いメッセージTシャツの負の側面か…と、安易に買ったことを少し反省しつつ、ぼっち時にはカーディガンをプロデューサ巻きして、ちょっとメッセージをごまかす感じで着たりしている。

メッセージは好きなのに、着ている肝心の本人が堂々とできていない矛盾を自覚しつつも、今年もそんな感じで自意識過剰で着るのであろう、このTシャツ。

ひとりはひとりぼっちではない。
わかってるんだけどさ。
胸を張るのは難しいよね。


ここまで書いてみて検索してみたら、糸井さん本人のコラムが真っ先に引っ掛かったでごさる。

孤独が前提である、という考え方、好きだなあ。

リアルテラハ生活(暫定)

いや、テラスハウス見た事ないんですけどね。

色々なことがあって、暫定的にシェアハウス生活を送ることになった。元々3LDKをシェアしていた友人ふたりの処に、最低限の荷物を担いで転がり込んだ形だ。

住み始めて少し経つが、一部屋貸してもらったことが大きいのか、住人の生活スタイルがそれぞれバラバラなのが都合よいのか、なんとなく気楽に過ごせている。
誰かの作ったお惣菜を三人でシェアしたり、逆に自分が作ったお惣菜をご自由にどうぞと提供してみたり、誰かの揚げたからあげをサーブしてビールのつまみにしたり。

珍しく全員が揃った時はご飯を一緒に食べてみたり、誰かの部屋に集合してテレビをだらっと観たり音楽流したり、ということもある。

もちろんそれぞれで引きこもる事もある。それが許されるのも、また居心地がよい。

私は新参者なので、先のふたりの生活リズムや距離感を伺いながら、ふたりの調子が狂わないようにと同じようなテンポで暮らすことを心掛けたりしている。たとえば、だらしなく暮らさないことと同じくらいに、沢山やりすぎもしないようにするなど。掃除とか、積極的にやりたいけど、それが却ってふたりのリズムを崩すような気もしているのだ。

私が転がり込んだ理由について、ある程度ふたりには話している。けれども、その事について説教も進捗状況のお伺いも何もなく、しばらく暮らしていいよ、三人目がいればそれはそれで楽しいし問題ないよ、と鷹揚に許してくれたことに頭が上がらない。

私は常々、交友関係が狭い事を悩んでいた。
もっと友達を増やした方がいいんじゃないのか、この年になって、いつも同じ友人たちとばかりつるむのは、自分の世界を狭くしているだけなのではないか、と。

けれど、突然一緒に住まわせてくれという申し出を許してくれて、大袈裟な干渉もなしに放置してくれるような優しい人たちが周りにいてくれるのなら、もうそれでいいじゃないか、これ以上の何を望むのかと、思い直すことができた。
ふたりのやさしさを、ひたすら牛のように反芻するばかりである。

この年で暫定シェアハウスをする事になるとは思いもよらなかったのだけれど、いざとなれば自分も誰かに頼れるということ、人生の舵とは愉快な方向に切れるものだなあという予測不能な感じ、人生の自由がまた一つ広がったような楽しさを実感して、何だか不思議とわくわくしている。

雨の夜

そういやアカウント取って気の向いた時に書こうかなーなどと思っていたら、そのまますっかり寝かせてしまっていた。ので、久しぶりにぼちぼちと書いてみよう。

現在、狭い1Kで彼氏とぎゅうぎゅうとふたり暮らしをしているのだが(ぎゅうぎゅうは容量として満杯である意)相手が現場系の仕事で明け方出勤が入ってしまったため、電気を消して、寝こける彼を横目に間接照明とTVの明かりだけでぽちぽちと文章を打っている。

暗い部屋で聞こえる雨の音が好きだ。

雨音が聞こえると、なんだかガラスのキューブか何かにくるまれているようなイメージが頭に浮かぶ。雨に部屋ごと包まれて、覆われるような。本格的に降ってくれた方がもっと安心するから、強めに降ってくれてもいいのよ。ただ夜に限るからね。

などとわがままな事を願ってみるなど。

雨が降れば電車は遅延するし、足元はべしゃべしゃになるし、そういや折り畳み傘がどっかにいってしまったから買いなおさないといけないし、更に初冬の雨なんて一番身体に響いて辛いのだし、どうあがいてもマイナスな要素ばかりが思い浮かぶのだが、部屋の中で過ごす雨の日、というのはとても好きだ。

やっぱり、閉じ込められるのがいいのかもしれない。物理的にも、聴覚的にも。

週終わりの晩酌は日本酒

先週、小田原へと小旅行に出向いた際、鈴廣が運営する「かまぼこの里」でお土産を買った。
年に数度、小田原方面へ出かける折はサービスエリアで「かをり巻」を求めるのが定番なのだが、せっかく総本山?まで足を運んだのだからと、普段は買わない品をチョイスしたのだった。

購入したのは刺身しんじょ(夏限定)と、揚げかまぼこ。
帰宅してちまちまと食べたところで、これは大変だ、ごはんと合わせている場合ではない、日本酒を用意して晩酌をしなければならぬと決意を固めた。

そして待ちに待った休前日。

というか準備万端すぎて、かまぼこだけでは腹が膨れないので、別の酒菜も用意しなくてはと、張り切って前日から肉じゃがまで仕込んでしまった。(我が家は実家に倣って豚肉じゃがである)この情熱が仕事にもあれば…。

帰宅後、肉じゃが以外にもつまみをちょこちょこ用意して、いざ晩酌。
揚げかまぼこ、刺身しんじょ、三つ葉入りのだし巻卵、肉じゃが、ほうれんそうの白和え。
日本酒は一ノ蔵。つまみを用意中に冷凍庫に突っ込んで急速冷蔵。これビールでもやるよね。わたしだけじゃないよね。

さて用意万端、と、うきうきテーブルに並べてテレビを点けたところ、ちょうど剣客商売が放送されていた。なにこれ何のサービス?ご褒美?
あー理想は鬼平だったけど、だけど時代劇見ながらの日本酒はオツだねえ、このままうっかり召されるんじゃなかろうかね、というくらいの多幸感でまんぱいになりながら、ちびちびと飲み進めて御馳走様でした。

みたいな日々の話を気が向いた時に書きたいと思います。
sowtaxと申します。よしなに。